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auカブコム証券

auカブコム証券は、口座数で全国5位のネット証券会社です。1999年、大手商社の伊藤忠商事などの出資により発足しました。設立当初は「日本オンライン証券」という社名でした。株注文の「逆指値」サービスを他社に先駆けて導入するなど、技術力で業界をリードしてきました。

大手ネット証券で唯一のメガバンク系

カブコム証券と同じ時期に多数のネット証券会社が誕生しましたが、次々と競争に敗れて消えてゆきました。戦国時代を生き抜いてきたカブコム証券は現在、三菱UFJ銀行グループが51%、携帯電話会社auが49%を出資しています。主要なネット証券の中で唯一、メガバンクの系列に属しています。

創業以来の経営者・齋藤正勝氏

auカブコム証券を設立前の準備段階から引っ張ってきたのが、現社長の齋藤正勝(さいとう・まさかつ)氏です。美術大卒という金融界では異色の経歴の持ち主。中堅証券会社から伊藤忠に移り、カブドットコムコム証券(当時は日本オンライン証券)をゼロから立ち上げる中心人物となりました。出資企業から高い評価を受け、40歳になる前に社長に昇格。北尾吉孝氏(SBI)、松本大氏(マネックス)、松井道夫氏(松井証券)らとともに、ネット証券業界の「顔」のような存在となってきました。

斉藤氏の経歴・プロフィール

斉藤氏個人とカブコム証券の歴史(年表)
1966年5月 東京都に生まれる
1989年3月 多摩美術大学卒業
1989年4月 野村総合研究所(野村総研)の情報システム関連の子会社「野村システムサービス」(現在は野村総研に吸収合併)入社
1993年 第一証券に転職
1998年9月 第一証券を退社
1998年10月 親会社の長銀が破たんし、国有化される。
1998年10月 伊藤忠商事に入社(契約社員)
1999年7月 日本オンライン証券設立。情報システム部長に就任
2000年2月 ネット証券取引開始
2001年4月 三和銀行系のイー・ウイング証券と合併。社名を「カブドットコム証券」に変更。
執行役員情報システム部長に就任
2002年5月 COO(最高執行責任者)就任
2004年6月 代表執行役社長に就任
2005年6月 取締役を兼務
2005年3月 東証一部上場

出生と学生時代

双子として東京に生まれる

齋藤正勝氏は、東京出身。双子の兄弟として生まれた(兄のほう)。父親は、玩具流通会社に勤務していた。中学・高校時代、父親は単身赴任中で、ほとんど自宅にいなかったという。

双子の2人はいずれも負けず嫌い。小さいときからライバル意識が強かったという。兄の正勝氏は、勉強ではオール5の成績だった。一方、弟・信勝氏は体育や美術が得意だった。

多摩美大時代にミュージシャンとして活動

正勝氏は都立高校に入学。その後、多摩美術大学に進学した。学生時代、先物取引の歩合制営業を行った。稼いだお金は1台100万円もするシンセサイザーやパソコンにつぎ込んだ。シンセサイザーを操り、「ペドロ&カプリシャス」のバックバンドをしたこともある。コンピューターグラフィックにも没頭した。


野村総研時代

就職活動

就職先として、祖父に「大手証券会社に行け」と勧められた。時はバブル真っ盛りだった。しかし、美大卒にとって証券会社の壁は厚かった。証券会社には合格しなかった。それでも、野村證券グループのシステム会社に採用された。野村総研の情報子会社「野村システムサービス」だ。この会社は後にNRI情報システムに社名変更し、さらに親会社の野村総研に吸収合併されることになる。1989年4月に入社した。

コンピューターの消耗品交換

最初の業務は大型コンピューターの保守・管理だった。定期的に消耗品(テープ)を交換する仕事だ。夜間勤務だった。Tシャツにジーンズ姿で夕方に出社し、朝の始発電車で帰る。トラブルがない限り、簡単にこなせる。プログラムを書くわけでもない。

同期入社組にはアルマーニのスーツで夜も街に繰り出し、楽しんでいる人もいた。身分の差を痛烈に感じ、「この境遇から抜け出そう」と考えたという。

独学で次々と資格取得

夜勤の前の昼間、猛勉強した。3年間で情報処理技術者の資格を取得した。入社4年目に開発部門に移った。しかし、病院で倒れた。原因不明のまま2ヵ月間入院。会社に居づらくなり、退職した。

再就職:準大手証券「第一証券」

退職後は、失業手当をもらいながら転職活動をした。30社ほど回ったという。半年後の1993年、第一証券に入社した。

システム担当に

第一証券は準大手の証券会社。日本長期信用銀行(長銀、後の新生銀行)の系列だ。そこで、会社全体のシステムの企画開発を担当した。

支店のパソコンを入れ替える作業

転職3年目に全国の支店のパソコンを入れ替える作業を買って出た。多くの人が敬遠する仕事だったので、逆に何かチャンスがあるかもしれないと思ったという。/p>

独断レポート

実際に支店を回ってみると色々と気付く所があった。「この支店は士気が高い」「パソコンに詳しい社員がいる」「業務がうまくいかない理由はこれではないか」・・・。訪ねた支店のレイアウトやIT化の課題をチェックするようになった。調べた内容を勝手にリポートにまとめ、経営企画室に提出した。すると、気に入られ、予算がもらえた。

株オンライン取引に注目

経営幹部に気に入られたのを良いことに、株オンライン・トレードのプロジェクトに取り組むことになった。ちょうど米国でネット証券の業績が上向き始めていたころだった。調べていくうちに「安くて革新的なシステムを作れば絶対もうかる」との確信を得た。

長銀破綻で計画が頓挫

独立・開業ではなく、第一証券の社内で事業を立ち上げる計画だった。しかし、そんなころ親会社の長銀が破綻した。系列の第一証券も消滅へと向かうことになった。株オンライン・システム立ち上げのプロジェクトは頓挫(とんざ)した。


起業を目指す

企画書を手にスポンサー探し

1998年9月に第一証券を退職した。次に目指したのは、起業だ。「既存の証券会社でオンライン株取引を実現させるのでなく、会社ごと設計してしまおう」と考えたのだ。 自分で企画書を書いて、出資をしてくれるスポンサー探しを始めた。企画書では「新しい技術を使った独自のシステムをつくる」という特徴を訴えた。

臼田琢美氏

このころ、キーマンの一人と出会った。後にカブドットコムの常務執行役となる臼田琢美(うすだ・たくみ)氏だ。

個人投資家の株サイト

臼田氏は1966年生まれ。齋藤正勝氏と同じ年である。大阪出身。大学卒業後は、立花証券入社や日興国際投資顧問に勤務した。早くからインターネットに着目。1996年に個人で投資家向けコミュニティ「かぶこーネット(株式投資向上委員会)」を立ち上げた。このサイトは後に国内最大規模の株情報サイトになる。齋藤氏は臼田氏とサイトを通じて出会い、意気投合。他の仲間も交えて「株オンライン会社」の構想を練った。

米国でも門前払い

懸命に出資者を探したものの、日本の企業には相手にされなかった。そこで、アメリカに渡って米企業を訪問した。米イー・トレードなど、当時まだ日本に進出していなかったネット証券にも話を持ちかけた。しかし、次々と断られた。

磯崎哲也氏

第一証券と同じ長銀グループに属する会社「長銀総研」に、磯崎哲也氏という社員がいた。コンサルタント業務に携わっており、米国の黎明期のインターネット業界に精通していた。磯崎氏が第一証券に招かれて、アメリカのネット証券の動向について講演した際、システム部門の社員だった齋藤正勝氏を紹介された。磯崎氏は齋藤氏の5歳年上。

伊藤忠に紹介

後日、磯崎氏は伊藤忠商事が社内にオンライン証券会社の設立検討チームを作ると聞いた。齋藤氏らを紹介した。

伊藤忠・小林栄三氏との出会い

こうした経緯を経て、齋藤正勝氏はある大物商社マンとの運命的な出会いを果たす。伊藤忠の小林栄三氏だ。小林氏は後に伊藤忠の社長にまで上り詰めるが、このころは情報関連の部長を務めていた。

「ベンチャー起業ではなく、伊藤忠が新会社をつくる」

小林氏は当初、米国ですでに実績のあるネット証券会社と提携しようと物色していた。しかし、なかなか相手が見つからなかった。有力な米企業は既に日本企業と提携済みだったのだ。そんなときに齋藤氏らの存在を知った。

独自システムの構想を評価

もともとは米国の技術を使う計画だった伊藤忠は、「独自技術による株取引システムをつくる」という齋藤氏の路線を気に入った。ただ、小林氏は、齋藤氏が新設するベンチャーの出資者になるのでなく、齋藤氏らを伊藤忠の社員として取り込み、あくまで伊藤忠が主体になって会社をつくることを提案した。

伊藤忠の社員に

結局、齋藤氏は1998年10月、契約社員・嘱託として伊藤忠に入社した。他の仲間6名も一緒に採用となった。当初目指した「起業」とは異なる道だったが、大企業が母体となる新会社なら信頼度は申し分ない。長銀総研の磯崎氏も会社を辞めて伊藤忠のプロジェクトに移り、主に経営計画や資金調達に奔走することになった。


「日本オンライン証券」の設立

齋藤氏らはマイクロソフトのウィンドウズをベースに、純国産システムの開発を始めることとなった。ウィンドウズが基盤なら管理も運営もしやすいとの考えからだった。費用も安く済む。

三和銀行も出資

1999年7月に新会社「日本オンライン証券」が設立された。資本金20億円のうち過半数を伊藤忠が出資した。米マイクロソフトや三和銀行も出資した。

情報システム部長に就任

新会社で齋藤氏は、情報システム部長に就任した。課されたミッションは、株取引の手数料が自由化される1999年10月までにシステムを完成させることだった。しかし、開発は多難を極めた。

多難を極める開発

他のネット証券は、大手証券の出来合いのシステムを使って準備を進めていた。しかし、日本オンライン証券は独自のシステムを選んでいた。1日で2か月分の仕事をしないと間に合わない状況だった。

外注を含めるとスタッフは総勢数百人もいた。分担していた作業を突き合わせてみると、プログラムが動かなかったり、ネットワークがつながらなかったりと問題が尽きなかった。泊まり込みで作業を進めた。

営業開始が延期

結局、システムの完成はスケジュールに間に合わず、当初予定されていた1999年11月中の開業が延期された。同業他社は、株式売買手数料の自由化と同時に事業をスタートできた。しかし、日本オンライン証券は2000年1月になってもうまくいかず、2月にようやくスタートできた。これは、齋藤氏にとって痛恨の事態だった。親会社の伊藤忠の役員からも非難を浴びた。

自前システムが利点に

齋藤氏らが開発した取引システムは、完成が遅れたものの、画期的な点がいくつかあった。

安上がり。改良しやすい

それまで金融機関の情報システムは、大型コンピューターを使うのが当たり前だった。これに対して、日本オンライン証券は、米マイクロソフトのウィンドウズなどの標準化されたソフトウエアや廉価なハードウエアを使った。いわゆる「オープン系システム」である。オープン系のほうが、長期的にみると断然安上がりだ。改良もしやすい。米マイクロソフト会長だったビル・ゲイツは「東洋の神秘だ」と驚嘆したという。

独自機能を追加

また、システムを自前で構築したことで、自分たちで素早く新しい機能を導入できることとになった。

「逆指し値注文」を業界で初めて導入

例えば「逆指し値注文」を業界で初めて実現した。これは、株価が売買発注時よりも上昇し、指定した株価以上になれば買い。または株価が売買発注時よりも下落し、指定した株価以下になれば売りとする注文形態だ。つまり相場の動向に応じて注文ができるというものだ。

株価の通知サービスも

このほか、指定した銘柄がある一定の株価になれば、電話、携帯電話、メールで、リアルタイムに通知できるサービスも開始した。 相場を常時見ていられないサラリーマン投資家の絶大な支持を得た。他のネット証券も遅れて追随してきた。

心臓部を握る

齋藤氏は「システムを外注するのは心臓部を他人に握られるのと同じだ。自社で持つことで、他社がまねできないサービスを提供できる」と語った。

自腹の増資

とはいえ、サービス開始に出遅れた日本オンライン証券は、思うように業績が伸びなかった。一時は証券会社の財務の健全性を測る指標である「自己資本規制比率」が基準を下回る恐れが出た。

親族に借金

増資をする必要に迫られた。しかし、伊藤忠はこれ以上の出資に難色を示した。 齋藤氏は金融機関やベンチャーキャピタルにかけあって新たな出資を仰いだ。 さらに、自らも親族に借金をして、数千万円を出資した。いわば自腹で増資を引き受けたのだ。


旧三和系と合併

社名を「カブドットコム証券」に変更

2001年4月1日、日本オンライン証券は、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)傘下のネット証券会社「イー・ウイング証券」と合併した。対等合併だった。これにあわせて、社名を「カブドットコム証券」に変更した。齋藤氏は、合併後の新会社で執行役員情報システム部長に就任した。

名実ともに経営トップに

その後、齋藤氏は2002年に最高業務執行責任者(COO)に昇格。2004年から代表執行役社長。2005年6月から取締役を兼務し、名実ともに経営トップになっていく。まだ30代の若さながら、伊藤忠や三和銀行などの株主企業から厚い信頼を得ていた。

2004年に新システム

口座数の増加を受けて、カブドットコム証券は2004年5月に新しいシステムに移行した。新システムでは、インテル製の64ビットの中央演算処理装置(CPU)を使ったサーバーを採用。複数の売買注文を同時にまとめて出せるバスケット注文に対応した。お披露目イベントには、株主でもあるマイクロソフトのスティーブ・バルマーCEO(最高経営責任者)も駆けつけた。

「サービス品質保証制度(SLA)」

さらも、5分以内に注文取り次ぎができず損が出た場合に差額を返却する「サービス品質保証制度(SLA)」も導入した。すでにピーク時には5万件の受発注が殺到していたが、それを処理してみせるという自信の証しだった。

最短で東証1部に直接上場

カブドットコム証券は2005年3月に上場した。創業からわずか5年4カ月で、東証一部への直接上場だった。ごく一部の例外を除き最短記録だった。

知名度アップ

上場によって個人投資家に対する知名度が高まり、営業面でプラスに働いた。親会社の伊藤忠やUFJなどのグループの中においても、一目置かれる存在になった。

三菱銀行系とも合併

2006年1月には、旧三菱銀行系の「Meネット証券」と合併した。これによって、旧三和銀行を含めた「三菱UFJ」グループの株主比率が高まった。さらに翌年、三菱UFJグループは公開買い付け(TOB)でカブコム証券の株式を買い増し、連結子会社にした。一方、設立母体の伊藤忠は順次持ち株を手放し、着実に売却益を得ていった。


夜間市場の開設

カブコム証券は2006年9月、業界に先駆けて株式の夜間市場を開設した。これは東京証券取引所と同じように株を売買できる私設市場だ。

もともと夜間取引の実現は、昼間に売買できない個人投資家を取り込みたいネット証券にとって、悲願だった。齋藤氏は、夜間取引を始めるために、1年以上を費やして金融庁から私設取引システム(PTS)の認可を取得した。 開発費は約30億円。さらに自然災害などを想定したバックアップセンターを福岡市に設立した。


「au」傘下に

2019年、創業以来の大きな転換期を迎えた。携帯電話大手のauがカブコム証券への出資を決めたのだ。公開買い付け(TOB)が実施され、auの株式保有割合を49%になった。三菱UFJ証券ホールディングスの保有比率は51%となり、「金融とモバイル」という異業種連合の傘下に収まった。同時に上場は廃止となった。社名は「auカブコム証券」に変更された。株主構成は大きく変わったが、齋藤氏は引き続き経営トップを務めることになった。

スマホアプリで新境地を

オンライン株取引の主流は、パソコンからスマホに変わった。 auによる大型出資は、スマホアプリによる株取引で新境地を拓くための大きなステップとして期待されている。

参考文献

  • 朝日新聞
  • 読売新聞
  • 中日新聞
  • 産経新聞
  • 週刊朝日
  • 日刊工業新聞
  • 齋藤正勝著「カブドットコム流 勝ち残り法則80ヵ条」
  • 齋藤正勝著「本気論」
  • 齋藤正勝著「すごい逸材になれ!」
  • 日本工業新聞
  • エコノミスト
  • 週刊ダイヤモンド
  • 日経ビジネス


auカブコム証券の齋藤正勝氏