名前 | 評判・実績・評価など | ||||||||||
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盛田昭夫(もりた・あきお)![]() 【就任期間】 1968年3月11日~ 1970年4月 【生まれ】 1921年1月26日 【死去】 1999年10月3日、死去。享年78歳。死因は肺炎。 |
米CBSから高評価ソニー・ミュージック(当初は「CBSソニー」)は、ソニーと米国CBSの共同出資(50%ずつ)により誕生した。ソニー本体の事実上の経営トップだった盛田氏は、CBSとの交渉を成功させた生みの親だった。 初代社長に就いたが、実際の経営は大賀典雄氏(当初は専務。後に二代目社長)に任せた。つまり、事実上の初代社長は大賀氏だったということだ。盛田氏が社長ポストに就いたのは、合弁相手である米CBSを安心させるためもあったのかも知れない。何しろ大賀氏はまだ38歳だった。 就任から2年後には早々と社長を退き、後任に大賀専務を昇格させた。 行動力で勝ち取る日本政府は1967年7月、「第1次資本自由化」を行った。資本の自由化とは、外国企業が株主となって日本で会社をつくるのを認めることだ。「第1次」にはレコード業界も含まれた。ただし、レコード業界の場合は外資の全額出資は認められず、「外資50%以下」が認められるようになった。すなわち日本企業と外国企業の合弁(ごうべん)の方式だ。 これを受けて、米CBSは合弁会社のパートナー候補として、日本コロムビアと交渉する。しかし、日本コロムビアの動きは鈍く、合弁話は暗礁に乗り上げた。 そこで、CBSは音響機器メーカーとして有名になっていたソニーに目をつけた。CBSの国際進出の責任者が人を介して盛田氏に接触を図ると、盛田氏は「明日ランチをしよう」と即答してきた。その日本人らしくない決断の速さと行動力がCBSの好印象につながる。ランチの数日後には、CBS本社の社長をソニー本社に招き、合弁設立で大筋合意した。 その卓越した行動力は、盛田氏が「日本史上最も偉大な名経営者の一人」として語り継がれる理由の一つだ。 社長就任時の年齢47歳 社長就任時の役職親会社ソニーの副社長(共同創業者)、米国ソニー社長 他の主な役員人事大賀典雄(親会社ソニー取締役)が専務に |
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大賀典雄(おおが・のりお)![]() 【就任期間】 1970年4月~ 1980年5月 【生まれ】 1930年1月 【死去】 2011年4月、死去。享年81歳。死因は多臓器不全。 |
わずか十年で業界トップに立つという偉業を成し遂げた。プロの音楽家(元オペラ歌手)であり、かつ一流の経営者という特性をいかんなく発揮した。 アイドル路線で大成功。南沙織、キャンディーズ、山口百恵らを売り出した。 社長就任時の年齢40歳 社長就任前の役職専務、親会社ソニー取締役 実質的には初代社長会社が設立する前から、当時ソニーの経営トップだった盛田氏からの指示で、米CBSとの合弁交渉を担当した。設立後は、そのまま経営を任された。 当時、大賀氏は30代ながらソニー本体の取締役となり、商品開発、デザイン、宣伝などの責任者になっていた。電機メーカーとしての屋台骨を支えていたわけだが、それでも、盛田氏は音楽の専門家でもある大賀氏にレコード会社を任せる以外に選択肢はなかった。 設立当初は専務という肩書だったが、実質的には初代経営者トップ。自分の右腕として、ソニー本体で優秀な部下だった小澤敏雄氏(後任社長)を引き連れてくるなど、人材集めでもセンスの良さを発揮した。 高い経営目標会社設立当初、大賀氏は4つの経営目標を掲げた。以下の4つ。
いずれも10年で達成した。 1979年に国内トップに1979年に国内のレコード会社で売上高1位になった。 レコード店との取引の近代化「半年手形」から「現金振込決済」へレコード店とレコード会社の決済の方法を変えた。 それまで業界では手形決済が当たり前だった。しかも「半年手形」だった。 だが、レコード店は現金商売が基本。 それなら決済は即日行われるべきだと、大賀氏は考えた。 当初は反発を受けた。レコード店の中には「生意気だ。あとからやってきて現金決済なんてことを言い出した」といって契約してくれないところも多かった。 返品率を10%以内にまた、それまではメーカーからの押し込み販売ができるかわりに、レコード店からの返品もほぼ自由だった。 「卒業」が追い風に人気映画「卒業」の主題歌「サウンド・オブ・サイレンス」が追い風となり、レコード店と契約ができた。 採用採用戦略も大当たりだった。 新会社は、通商産業省(現経済産業省)から、同業のレコード会社から人材を引き抜かないよう指示を受けてた。 このため、幅広い業種から募る必要があった。 大胆な求人広告1968年3月、新聞の1ページをほぼ埋め尽くすような大きな求人広告を打つ。 応募資格として「国籍、年齢、性別、学歴、身体障害の有無の一切を問いません」という当時としては衝撃的なコピーを掲げた。 さらに、会社のロゴマークを真ん中に配置し、「これが音楽の新しいシンボルです」と銘打った。 当時としては極めて斬新。80人の採用枠に約7000人の応募があった。 応募者の業種は様々で、証券、ゼネコン、製薬、広告などの異業種が多かった。 こうして、業界の慣習や前例にとらわれない組織が生まれた。 アイドル路線セールス上の最大の成功要因は、「アイドル路線」だった。 1960年代まで、レコード会社は多くの作曲家や作詞家を抱えていた。自社で作った演歌などを専属歌手に歌わせて、レコードにするというのが常識だった。しかし、新規参入組のCBSソニーは、そうした方法がとれなかった。 そこで見た目(ビジュアル)で売れるアイドルに目を付けた。芸能事務所とも協力し、作詞、作曲をフリーランスに依頼するなどしてレコードを制作した。タレントの管理は芸能事務所に任せ、事務所との業務のすみわけを行った。 それまで「青春スター」と呼ばれていた若手歌手たちの中から、「アイドル(偶像)」を分離させることに成功した。 カルメン・マキに始まり、にしきのあきら、フォーリーブス、ピーター、南沙織、天地真理、浅田美代子、キャンディーズ、郷ひろみ、山口百恵など。アイドルがヒットを連発した。 フォーリーブス初期の作品として、4人組グループ、フォーリーブスのデビュー曲「オリビアの調べ」(1968年9月)がある。 ソニー・ミュージックの記念すべき1枚目である。 会社設立から半年後に発売された。 後に敏腕プロデュースとして有名になる酒井政利氏が手掛けた。 なお、フォーリーブスの所属は、ジャニー喜多川(児童虐待犯)率いるジャニーズ事務所だった。 南沙織続いて1971年には沖縄出身の南沙織が登場。南は、翌72年の沖縄返還のタイミングにも合い、一気にブレークする。 新人歌手の発掘かつてレコード会社には タレント養成の機能があった。 しかし、芸能事務所(プロダクション)の台頭に伴い、その機能が弱体化していた。 オーディション大賀チームは、アイドルのオーディションを開催し、新人を獲得する手法を生み出した。 新人の発掘・育成を専門に担当する部門「サウンド・デベロップメント(SD)事業部」を1978年に設立する。 それ以来、グランプリ形式の「CBSソニー・オーディション」の名でオーディションが定期開催された。 第1回目には、北海道地区から五十嵐浩晃と堀江淳、東北地区からはハウンド・ドッグ、中国地区からは村下孝蔵がレコードデビューした。後に尾崎豊、平井堅らを発掘した。 また、アイドルに特化したオーディションも行った。例えば、当時若い女性に人気だった集英社の雑誌「セブンティーン」と組んだ「ミスセブンティーン」コンテストを企画。1978年に開催された九州地区大会で、松田聖子を発掘した。 ロックでも勝利アイドル路線に続いて、邦楽ロックの分野でも躍進を遂げた。 エピック(EPIC)ソニーを設立1978年、子会社として「エピック(EPIC)ソニー」を設立する。第一期生である丸山茂雄氏(後の社長)が主要メンバーとなった。和製ロック路線で一時代を築いた。 原盤権エピックは楽曲を録音したオリジナルである「原盤」の所有権問題にも取り組んだ。当時、日本ではレコードの原盤を歌手の所属事務所が持つのが普通だった。レコード会社は印税などを事務所側に支払う形でレコードを売っていた。 だが、海外では原盤はレコード会社が持っていた。レコード以外への展開を考えたら、原盤の保有が必要だ。そこでエピックは「原盤を持たないレコードは出さない」と宣言した。 ジャケットのデザイン大賀氏といえば、デザインづくりの天才としても有名だ。 ソニー本体の機器をかっこく良くしてきた最大の貢献者であった。 その能力はソニー・ミュージックでも発揮され、レコードのジャケットのデザインをおしゃれにしていった。 外部からのスカウトの成功大賀チームでは、通常の人材募集に加えて、外部からのスカウトも積極的に行った。 スカウトした人材の中から、スター社員が生まれていった。 酒井政利(1968年入社)酒井政利氏(1968年入社)は、大賀氏に「これからはアイドルだ!」と提言した人物だった。 もともとは日本コロムビアに勤務していた音楽プロデューサーだった。 制作部門を強化するために引き抜いた。 酒井はソニーへの移籍後、カルメン・マキの「時には母のない子のように」(1969年)、朝丘雪路の「雨がやんだら」(1970年)、南沙織の「17才」(1971年)などを送り出す。アングラ・スターのカルメン・マキ、30代の女優だった朝丘雪路、真っさらな新人の南沙織と、多様な人材で音楽界に新風を吹き込んだ。 稲垣博司(1970年入社)設立から3年目の1970年、ナベプロから稲垣博司氏をヘッドハントした。 稲垣氏は当時、大卒4年目。タレントのマネージメント業務をしていた。 ソニー移籍後、山口百恵やキャンディーズなどに携わった。 歌謡曲全盛期を「制作・プロモーション担当」として支えた。 さらに、新人発掘部門のSD(サウンド・デベロップメント)制作部を立ち上げた。 中曽根皓二ディラクター兼プロデューサー。 朝日ソノラマを経て、1968年、設立されたばかりのCBS・ソニーに一期生として入社した。 中曽氏はヘッドハンティングではなく、通常の中途採用で入ったようだ。 ソニーでは酒井氏との二枚看板となった。 吉田拓郎、五輪真弓などのシンガー・ソングライターを手がける一方、天地真理やキャンディーズなど、アイドルポップスでもヒットを連発していた。 渡辺真知子中曽根の指導により自作曲を書きためた渡辺真知子は短大卒業後の1977年11月、「迷い道」でデビュー。卓越した歌唱力を最大限に生かしたメロディと、インパクトのある歌詞はたちまち評判となり、オリコン3位まで上昇する大ヒットを記録した。 |
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小澤敏雄(おざわ・としお)【就任期間】 1980年5月~ 1992年1月16日 【生まれ】 1926年(大正15年)10月26日 【死去】 2020年9月13日、死去。享年93歳。 |
初代の総務部長として、会社設立当初から大賀氏を支えた。 歌手の卵を独自に発掘する若手チームをつくるなど、組織運営で力を発揮した。 社長就任時の年齢53歳 入社年次1952年、古河鉱業(現:古河機械金属) 1960年、ソニー入社 1968年、CBSソニーに移籍 出身校東京大学(法学部)、1952年卒業 ソニー入社理由古河鉱業に勤務した20代半ば、主に鉱山の現場で過ごした。 石炭から石油へと転換する時代だった。 石炭業界は大不況となり、解雇が横行した。 「どんなに優秀な人がそろった会社でも、ニーズのないものを作る会社はむなしい」と思った。 入社から8年後、ソニー本体に転職。 ソニー・ミュージックへ移籍ソニー・ミュージック設立に伴い、ソニー本体から転籍した。 当時(1967年12月)、ソニーで資材課長をしていた。 第二製造部時代の上司であり、取締役になっていた大賀氏から誘われた。 「こんど、米国のCBSとソニーでレコード会社をスタートさせることになった。新会社に来てくれないか」という。 大賀氏は、小澤氏の管理職としての能力を高く評価していた。 また、一時、ソニーの協力会社である光和電機の常務へと出向し、経営再建を成功させた実績もあった。 「当時、レコードなんて10枚ほどしか持っていないソフト音痴だった」という。 小澤氏を含めソニー本体から12~13人が設立時のソニー・ミュージックに移った。 社長として社長に就任した1980年、ソニー・ミュージックの大きな柱だった山口百恵が引退した。 レコード業界全体にも陰りが見え始めた。 レコード生産額は1981年、82年と2~3%減っていた。 1980年代の和製ロックしかし、1980年代に訪れる和製ロックブームが、売上のけん引役となった。 ブームを主導したのは子会社のエピック・ソニーだった。 エピックは、CBS・ソニーのアイドル路線とは逆に歌手をテレビに出さない代わりに、ミュージックビデオによるミニコンサート戦略を打ち出した。これが当たった。 なお、エピック所属の売れたアーティストは以下の通り。
CD工場アナログレコードからCDへのスピーディーな転換でも成功した。 CDの需要増加を見越し、静岡工場に月産30万枚の生産ラインをつくった。 その後もアナログレコードの生産ラインをどんどん縮小し、1989年にはカセットテープの生産ラインもすべてCDに切り替えた。 CD時代のリーダーとして業界を引っ張っていこうと、思いきった先行投資を断行したのだった。 エピックなどレコード子会社4社を統合1988年2月、全額出資会社だった「CBSソニー」、「EPICソニー」、「CBSソニーレコード」、「ソニービデオソフトウェアインターナショナル」の4社を吸収合併した。また、ソニー本体の子会社だった「ソニー・クリエイティブプロダクツ」と「ソニー・ビデオソフトウェア・インターナショナル」の2社を、ソニー・ミュージックのグループ内に取り込んだ。 米国と対等に1988年、ソニー本体が米国CBSレコードを買収した。買収価格は20億ドル(2700億円)だった。買収に伴い、日本のCBSソニーが1991年4月、ソニー・ミュージック・エンタテインメント(SME)に社名変更された。 かつての米国CBSは、ソニー米国法人の子会社になった。 上場1991年11月の株式の上場を果たした。 上場先は、東証2部(東京証券取引所二部)。 レコード専業会社としては初の上場だった。 プレステ(ソニー・コンピュータ)の初代社長1993年11月、ソニー・コンピューターエンタテインメントの初代社長に就任した。 ソニーと、ソニー・ミュージックエンタテインメント(旧CBSソニー)が折半出資で設立した家庭用テレビゲームのソフト開発・販売会社だった。 当時67歳。社長に就任するまではテレビゲームに触ったことなどなかった。 会社以外での役職日本レコード協会会長 |
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松尾修吾(まつお・しゅうご)【就任期間】 1992年1月16日~ 1996年6月 |
社長就任時の年齢53歳 社長就任前の役職副社長 前任者の新ポスト小澤社長は、空席になっていた会長に。1993年11月からプレステ社長に 他の主な役員人事稲垣博司氏(当時51歳)が専務から副社長(代表取締役)に昇格 人事の背景小沢社長が内規の社長定年(64歳)に達したため。 入社年次1951年、ソニー入社
出身校慶応大学(商学部) 略歴キャンディーズの宣伝担当宣伝担当時代はキャンディーズらを売り出した。 役員歴
1978年エピック・ソニー専務、
出身地福岡市 実績業績経常利益ベースで最高益を達成した(1995年3月期)。ただし、なかなかヒットが出なかった。 エイベックスに敗北ヒットチャートでは、ダンスミュージックを武器に急成長したエイベックスやトイズ・ファクトリーなど、小集団ながらヒットを連発する新興勢力に押されぎみだ。 住宅地にビル港区白金台五丁目の住宅地に、事務所ビルを建設した。(2006年に売却) 後継者人事で失敗(1996年)1996年4月25日の取締役会で、自分が会長に就任し、関連会社社長で営業畑出身の功刀(くぬぎ)良吉氏(当時56歳)が社長に就任することを決めた。 研究所へ放出同時に、稲垣博司副社長(当時54歳)と丸山茂雄副社長(当時54歳)が、新しい子会社「SMEアクセル」に異動することとなった。2人は、長年音楽制作の最前線に立ち陣頭指揮を執ってきた人物だった。 SMEアクセルは、ソニー・ミュージックの研究所(シンクタンク)のような機能を担う会社とされているが、具体的な業務内容は決まっていなかった。 発案者は、丸山氏自身実は、SMEアクセルの発案者は、丸山氏自身だったようだ。彼は既にプレステ幹部としても大成功しており、ソニー・ミュージックの社長になる気がなかったのかも知れない。 稲垣グループの離反ともあれ、稲垣グループは納得がいかなかったようだ。稲垣氏は山口百恵に続いて、松田聖子など数々のスターを育て上げた。 稲垣氏と丸山氏の別会社行きに、制作サイドから「新しい体制は営業・管理色が強すぎる。レコード制作を無視するような人事には承服できない」と猛反発が生まれた。 さらに、稲垣氏は辞意を漏らしたことから、制作サイドの役員、幹部約30人が辞表を提出した。所属するTUBEらの人気アーティストを育てたスタッフが多かった。いうなれば「制作部門の反乱」だった。 辞表を提出したのは30人の中には、以下の人たちが含まれていた。
顛末(てんまつ)結局、しばらくして丸山茂雄氏はソニー・ミュージックにCEOとして復帰することとなる。この人事には、歴代社長である大賀典雄氏や小澤敏雄氏の意向が働いたようだ。丸山氏自身も「大賀さんや小澤さんに頼まれたら断るわけにいかない」と証言している。 1996年、稲垣氏は「SMEアクセル」(後のSMEグループマネージメント)社長に就任した。また、ソニーマガジンズの社長、JスカイB取締役などを兼務した。 趣味(社長就任時)野球が好きで、部長時代の40歳ごろまで社内チームの投手だった。 音楽については、若いときはジャズとハワイアンぐらいしか知らなかった。 会社以外での役職日本レコード協会会長 日韓文化交流会議委員1999年、音楽産業・文化振興財団の理事長として日韓を行き来するうち、韓国の音楽業界代表から「サッカー・ワールドカップ日韓大会に向けて一緒にCDを作ろう」と持ちかけられた。日韓で初の共同制作CDの同時発売にこぎつけた。 |
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功刀良吉(くぬぎ・りょうきち)![]() 【就任期間】 1996年6月27日~ 1998年2月16日 ※1997年10月CEOを外れ、COOに 【生まれ】 1940年6月3日生まれ。 |
社長就任時の年齢55歳 社長就任前の役職ソニー・ファミリークラブ社長 前任者の新ポスト松尾修吾社長は会長(代表権あり)に 他の主な役員人事松尾修吾社長が会長に。丸山副社長は非常勤取締役に。 人事の背景レコード制作の経験は皆無だった。言ってみればソニー・ミュージックの本流からは外れていた人物だった。>「功刀って誰なんだ」。周囲は一様に戸惑った。ソニー・ファミリークラブ時代に大胆な組織改革を行い、一部ではその経営手腕が買われていた。 入社年次1968年(一期生) 出身校東京大学(農学部)
略歴営業畑を歩いた後、主に子会社でキャリアを積んだ。 1987年、「CBSソニー出版」社長、 1993年、ソニー・ファミリークラブ社長。 就任前の実績・評価・評判・口コミ「即断即決で分かりやすい」が社内の評価だった。 出身地大阪市 実績以下の五箇条をブチ上げた。
1996年10月には、独立した小規模制作集団である「社内オフィス制度」を設立した。1997年2月にはオフィス制を補強するとともに、本部制を廃止した。 「キープ・スモール」を掲げた。制作部隊は小さいほうがいい。小回りのきくユニット単位なら、もっとヒットが出るはずだという考え方だった。 一方、営業・工場部門ではスケールメリットを求めた。「自らつくったソフトを自ら売る」という純血主義の掟を破り、エイベックスやジャニーズ系レコード会社といったライバルたちからディスク製造や営業業務の請け負いを受注した。 報酬制度報酬制度にまで手をつけた。ソニー・ミュージックでは従前から、レコード制作という特殊な職種から職能格制度や期末特別報酬といった独自の給与体系を敷いてきた。あるヒットが生まれると、制作から営業まで関与した全ての社員の給与を上げていた。 功刀氏は、関与の度合いに応じて成功報酬を積み増すことにした。適性に応じて、ジョイントベンチャーによる独立も支援する姿勢を示した。故・尾崎豊を育てた須藤晃プロデューサーの独立に一部出資するなど、会社の枠を超えて人材を生かす方向性だった。 早期の退任1997年10月、「COO兼社長」という肩書になる。同時に、子会社に転出していた丸山氏が「CEO兼副会長」として復帰する。 その数か月後の1998年2月13日、社長退任が発表され、後任社長に丸山氏が就いた。会見に功刀社長は出席しなかった。 退任後は、社内の役職に就かなかった。 座右の銘、モットー(社長就任時)座右の銘は「一隅を照らす」。世の中の片隅をキラキラと照らし、人の役に立てるような仕事をしたいとの意味だ。 趣味(社長就任時)ストレス解消法は風呂。 とりわけゴルフを楽しんだ後、ゆっくりと入浴することが一番だという。 酒は澗(かん)酒を二合程度飲んで早めに就寝。 年に1度、一週間の休暇を利用してハワイでまとめてプレーするのが最大の楽しみ。 |
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丸山茂雄(まるやま・しげお)![]() 【就任期間】 1998年2月16日~ 2000年12月 ※1997年10月からCEO 【生まれ】 1941年8月13日生まれ |
ソニーグループの歴史に残る偉人1980年代に「ロックの丸さん」と呼ばれ、ソニー・ミュージックの躍進に貢献した。親会社ソニーの技術者や経営者たちを結びつけ、ゲーム機「プレステ」ビジネスを大成功させる立役者の一人にもなった。 満を持しての社長就任だったが、運に恵まれなかった。 任期中の2000年1月、ソニー本体に完全買収され、上場廃止へと追い込まれる。ソニー・ミュージックの「自由・独立」の精神がむしりとられ、「丸山流」を十分に発揮しきれなかった。 とはいえ、ソニー・ミュージック出身で、後にソニー本体の社長となる平井一夫氏を若いころに経営者として育てるなど、ソニー・グループ全体への歴史的な貢献は極めて大きい。 社長就任時の年齢56歳 社長就任前の役職副会長兼CEO 役員歴1992年副社長。 1993年から、ソニー・コンピュータエンタテインメント副社長を兼務し、プレステ大成功の立役者の一人となった。 1996年6月副社長から非常勤取締役に退いた。 新たに発足した子会社のSMEアクセルに移った。 いったん、ソニー・ミュージックの経営からは遠ざかった。 だが、古巣の業績不振を救うため、1997年10月からCEO兼副会長に復帰した。 前任社長の新ポスト退社 人事の背景制作部門の活性化が必要になった。 社長としての実績社長就任後、以下の施策を実行した。
外部のプロデューサーの起用外部のプロデューサーの起用では、ミスターチルドレンを手がけた小林武史、相川七瀬を見いだした織田哲郎、作家としても活躍していた辻仁成、もともとはソニー・ミュージック所属だった小室哲哉氏らと契約した。 音楽配信で先陣を切った1999年、楽曲データの配信事業を始めた。日本の大手レコード会社の先頭を切った。 社内カンパニー制を導入若手が力を発揮しやすいようにと分社化を実施し、現場に権限を委譲するようにした。 2000年7月にカンパニー制を導入。販売、製造と五つのレーベルをバーチャルカンパニーにした。 各カンパニーは完全分社化を予定していた。 さらに2001年1月には制作部門の「デフスターレコーズ」を分社した。ここは従業員は10人程度という少数精鋭スタッフ主義だ。 役員も60歳定年に役員でも60歳になったらグループ企業を含むすべての仕事から完全に退くよう内規を改めた。 もっと長くいるはずだった人たちにその分の報酬を支払い、退場してもらった。 成果主義社員に対しては成果に連動した実力本位の給与体系を導入した。 短命政権2年10カ月務めた後、潔く退任。代表権を返上し、経営の一線から退いた。 入社年次1968年6月、CBSソニー入社(一期生) 出身校1966年3月 早稲田大学(商学部)卒業 同年4月、読売広告社入社 出身地東京
ソニー・ミュージックでの略歴1968年6月、読売広告社からソニー・ミュージックに転職(第一期生)。 初任地は仙台初任地は仙台。アシスタントと2人だけで東北6県を全部カバーした。2年間勤務。 香港香港駐在。日本からレコードを輸入して現地で売る業務。2年弱務めた。海賊版対策で成功した。 東京勤務販促課の主任2年間東京営業所長を務めた。1974年に制作部門に属する販促課の主任に。つまり「販売促進・宣伝」の担当る。フォーク担当となった。渡辺プロダクション所属の太田裕美の「木綿のハンカチーフ」で大成功。 エピックに異動し、ロックで成功エピックの邦楽部門のトップに任命された。制作と宣伝、販促を束ねる役回りだ。競争の少ないロックで勝負し、大成功した。 家族家族夫人と2男 父親父は日本医科大学の学長。 「自分で見つけたテーマでなければやる気が出ない」が持論で、研究者の自主性を重んじた。 妻・正子さん2年弱の香港生活の締めくくり。 相手は友人の友人だった正子。 ヨーロッパ旅行の帰り、彼女が香港に立ち寄ったときに紹介された。 結婚までに会ったのは5回。 趣味(社長就任時)若いころはラグビー監督としてならした。 「休暇をとって南の島に飛び、ひたすら眠るのが最高」とか 銀髪にぎょろりとした目、白いポロシャツとジーンズにジャケットをはおり、足元はスニーカーという格好が板についている。 ライブハウスやコンサート会場はもちろん、役員会や業界の集まりなど、公の席にもこの姿で現れる。 上場企業の社長としてはいささか突飛な格好だ。、「レコード会社にとって飯のタネである若いミュージシャンと話すには、これが一番」と言う。 会社以外での役職プレステ副社長 |
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岸栄司(きし・えいじ)【就任期間】 2000年12月~ 2003年4月 【生まれ】 1943年10月生まれ |
「一期生」組からの最後の経営トップ。管理部門畑。 社長就任時の年齢57歳 社長就任前の役職コーポーレイト・エグゼクティブ 前任者の新ポスト丸山・前社長は取締役(代表権なし)に 人事の背景業績低迷 入社年次1968年6月
出身校1967年3月 慶応大学(法学部)卒業 日興証券入社し、1年後にソニー・ミュージックに転職 入社理由最初に証券会社に入ったのは「出世のチャンス」と思ったからだ。当時は証券不況で採用人数が例年より一ケタ少なかったころ。ところがモーレツ営業には参った。そんなとき、産声を上げたばかりのソニー・ミュージックの新聞広告が目に留まった。 実績分社化2001年10月1日付で、分社化を行った。 「洋楽制作」「邦楽制作」「販売」「CD・DVD製造」の各部門。 新会社7社を設立した。 これらの7社は、従来の社内カンパニー(バーチャル・カンパニー)を本体から切り離し、別会社として法人化したものである。 社長になる前に自ら担当として進めていたプロジェクトだった。
「レーベルゲートCD」(CCCD)を発売著作権保護機能を付加した「CCCD」を2003年1月22日に発売した(商品名はレーベルゲートCD)。 パソコンでの再生はインターネット個別認証した後、CDに暗号化した圧縮音源をハードディスク(HD)に解凍・複製して再生する仕組み。他のレコード各社にも採用を呼びかけた。この取り組みは、失敗に終わった。 CCCDについて→ 「特販」「録音」部門を子会社へ移管2002年10月、「特販」と「録音」の2部門を100%子会社のソニー・ミュージックコミュニケーションズに移管した。 特販部門は、CDなどの製造受託を担当。 録音部門は、レコーディング、マスタリング、オーサリングを担当していた。 SMCは、パッケージデザイン・制作・製造会社。移管によって、パッケージ制作からディスク製造、レコーディングなど受託製造の一貫体制を構築した。 略歴管理部門畑営業、総務、関連会社出向などの後、44歳で人事部長になった。
就任前の実績・評価・評判・口コミ「学歴不問」の採用導入人事部長になった1988年、役員以外の面接担当者には学生の出身大学を伏せた。 結果は、大卒46人の採用中、東大1人、早稲田5人、慶応3人、上智2人、東京芸大1人など、有名大学が続出。「役員の判断も出身大学に左右されているのでは」と翌1989年に小沢敏雄社長に直談判。応募用紙から学校名記入欄をなくした。 ドリカム所属レーベルの責任者これまでで特に印象に残るアーティストは、自らが責任者を務めたレーベルに所属していた「ドリームズ・カム・トゥルー(ドリカム)」。ボーカルの吉田美和には「これこそが音楽の原点」と思わせられたほどだ。その後、彼女らは契約条件が折り合わず移籍してしまうが、「個人的に非常につらかった」という。 出身地神奈川県 生誕1943年10月 趣味(社長就任時)趣味は特にないが音楽はジャズやイージーリスニング系が好み。 健康法(社長就任時)昼と夜の2食主義で体重コントロール モットー(社長就任時)自然体 社長退任後の役職2004年4月、ソニー本体のパーソナル・ソリューション・ビジネス・グループ(PSBG)プレジデントに就任 |
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盛田昌夫(もりた・まさお)![]() 【就任期間】 2003年4月~ 2004年6月17日 【生まれ】 1954年9月 |
ソニーの創業者の1人である故・盛田昭夫氏の二男。 社長就任時の年齢48歳 出身校米ジョージタウン大学 略歴大学卒業後の1978年、米モルガン銀行に入行。 1981年にソニー入社。 ソニー入社年次1981年 ソニーの創業者の1人である故・盛田昭夫氏の二男。 ソニーの創業者である盛田昭夫氏(1921-1999)は、長男の英夫氏に家業の造り酒屋を継がせた。 次男の昌夫氏は自分が立ち上げたソニーに入社させた。 入社後、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世した。 36歳だった1990年、ソニー本社の経営戦略グループの企画推進室長に就く。 38歳でオーディオ事業本部長に昇進した。ソニーでは史上最年少の本部長だった。 1997年に執行役員常務。 1998年にSMEに転じた。SMEに移った時から「いずれ“御曹司”が社長に就く」との見方が社内で語られた。 2004年以降はSMEJ取締役と兼務で、ブランド戦略などを担当してきた。 実績現場任せ音楽ソフトの制作に関するすべての権限を10-30代の若手の社員に与えた。 仕事は現場の社員たちに任せ、CEOは結果だけに目を通したという。 再編2003年4月1日付で、ループ各社をレコード会社などの「音楽系グループ」と、出版など関連ビジネスを展開する「独立系グループ」に再編。それぞれの統括会社を設立した。両グループの経理や人事など管理部門の業務は、グループ会社のソニー・ミュージックシステムズに委託することにした。 音楽系統括会社の社長には盛田昌夫SME取締役が、独立系新会社の社長には榎本和友・SME執行役員が就任した。両社の資本金は未定だが、ソニーグループが100%出資した。 出身地東京都世田谷区 |
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榎本和友(えのもと・かずとも)![]() 【就任期間】 2004年6月17日~ 2007年3月末 |
盛田氏はソニー本体の業務執行役員常務に復帰、ブランド戦略を担当する。 社長就任時の年齢58歳 社長就任前の役職取締役 前任者の新ポスト盛田氏(当時49歳)はソニー本体の業務執行役員常務に復帰、ブランド戦略を担当する。 入社年次1969年 略歴営業畑営業畑が長い。 |
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北川直樹(きたがわ・なおき)![]() 【就任期間】 2007年4月1日~ 2015年3月末 ※社長という肩書は使わず、ずっとCEOで通した 【生まれ】 1953年9月 |
社長就任時の年齢53歳 社長就任前の役職取締役 前任者の新ポスト榎本氏は代表権のない取締役に就任 入社年次1977年(新卒) ※大学時代からソニー・ミュージックでアルバイト 出身校中央大学(商学部) 略歴
EPICソニーA&R1部課長、洋楽EPICレコード次長として多くのアーティストを担当した後、1993年にソニー・ピクチャーズ エンタテインメントへ出向。映画宣伝を担当。
会社以外での役職日本レコード協会2011年5月から2013年5月まで、日本レコード協会会長 クールジャパン機構社長兼CEO2018年6月から、クールジャパン機構社長兼CEO |
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水野道訓(みずの・みちのり)![]() 【就任期間】 2015年4月~ 2019年3月末 【生まれ】 1958年3月 |
子会社からのし上がった。ソニー・クリエイティブプロダクツ出身。 社長就任時の年齢57歳 社長就任前の役職取締役 前任者の新ポスト北川氏はソニーグループのアドバイザーに 他の主な役員人事盛田昌夫会長は退任 入社年次1981年(ソニー・クリエイティブプロダクツ) 出身校早稲田大学(教育学部) 略歴子会社出身1981年、新卒でソニー・クリエイティブプロダクツ入社。3年前にソニー・ミュージックの子会社として設立された会社だった。 キャラクターのライセンスビジネスに携わった。 子会社の社長2003年に社長に就任。 「リトルロボット」2004年6月、「リトルロボット」「リトルボニー」「ヤムヤムヤミー」の3キャラクターで伊藤忠商事とライセンス契約を結んだ。 リトルロボットは英国のアニメキャラクターで、ソニー・クリエイティブが商品化権を獲得している。リトルボニーはニューヨークのアーティストが描き下ろしたキャラクターで、NHK教育テレビ「からだであそぼ」の番組中のアニメーションとして4月から放映されている。ヤムヤムヤミーは、NHK教育テレビの英語教育番組「英語であそぼ」内の人気映像作品ヤムヤムヤミーの商品化権を同社が獲得した。 伊藤忠は長期にわたって育成できるキャラクターを以前から探しており、今回は3キャラクターのアパレルと衣料雑貨、タオルのライセンスをソニー・クリエイティブから受けた。 別の子会社の社長に2005年にソニー・ミュージックコミュニケーションズ(現・ソニー・ミュージックソリューションズ)の副社長となり、2006年に社長に就任。 2008年、ソニー・ミュージックのデピュティ・コーポレイト・エグゼクティブ オアシス展2014年に英ロックバンド「OASIS」の展示会を開催。デビューアルバムのジャケット写真を模した撮影コーナーが大人気となった。 ドリカム展2015年には「ドリームズカムトゥルー」のツアーに伴って、ソニー・ミュージックコミュニケーションズが国内五大都市で、ドリカムの軌跡をたどるという展覧会を開催した。 出身地東京都 社長時代の実績スヌーピー・ミュージアム2016年4月、ソニー・クリエイティブプロダクツが日本国内での独占エージェント権を持つ「ピーナッツ」のスヌーピー・ミュージアムを東京・六本木に開館した。 KISS展2016年10月13日から19日間にわたり、米ロックバンドのKISSの博覧会「KISS EXPO」を東京・原宿で開催。KISSメンバーの自宅に保存されているデビュー当時の手描きポスターや契約書、メンバー使用のギターなどレアグッズを展示した。 |
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村松俊亮(むらまつ・しゅんすけ)![]() 【就任期間】 2019年4月1日~ 【生まれ】 1963年6月 |
社長就任時の年齢55歳 社長就任前の役職取締役 前任者の新ポスト会長 入社年次1987年 出身校立教大学(経済学部) 略歴入社から最初の10年は販促・営業畑入社から最初の10年は販促・営業畑だった。 1996年10月から制作を経験1996年10月に制作部門に配属された。 初めて担当したアーティストは、所属事務所の実績からすれば人気が出て当然だったが、数字が出ない。 もがけばもがくほど、あせりの泥沼にはまった。 才能を見込んで口説いた新人バンドはヒットの芽すら出ず。 「彼らの人生をつぶしてしまった」。心身ともにボロボロになり、会社に顔を出さなくなった。見かねた上司が1999年、大阪営業所に「逃がしてくれた」ことが転機につながった。 大阪で復活販売促進課長として赴任。8人の部下の面倒を見ているうちに、ガキ大将だったDNAがよみがえる。開き直った。「みんなで楽しくやれたらいいじゃないか」「そのためにも地方発のヒットを作ろう」。 テレビ局と組んでドラマの主題歌を歌わせたZONEらが売れると、部下全員の人事評価に最高点をつけ、本社に送った。 いきなりレーベルの専務に大阪行きから3年たった2002年、大黒柱でありながら赤字に転落していたレーベル、ソニー・ミュージックレコーズ(SMR)の専務に抜擢(ばってき)された。代表取締役だった。 輝かしい実績もないのに事実上のトップ就任。上司はこう言った。「君の部下に話を聞くと、みんな楽しそうに働いている。そういう生き生きした組織を作ってくれないか」。 オレンジレンジで大成功その時点でブレークの可能性が低いと思ったアーティストは、就任のあいさつと同時に契約打ち切りの話をしたという。 スタッフ全員と面談し、以前から注目していた沖縄出身のグループ、オレンジレンジに絞って売り出した。 2枚目のシングル「上海ハニー」でブレークさせることができた。 オレンジレンジはヒットを連発する。 2010年2月までにアルバム、シングル、DVDの販売数は1300万枚にのぼった。 この成功で現場のムードは一変。 会社は2年ほどで黒字になり、YUI、加藤ミリヤ、清水翔太ら若者の心をとらえるアーティストが現れた。 社長道2005年には41歳で社長に。
さらに2つのレーベル、SMEレコーズ(SMER)、ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ(SMAR)の社長も兼任しした。ここでも西野カナ、JUJUをヒットさせ、経営を軌道に乗せた。 2015年にソニー・ミュージック取締役。 出身地大分県 入社理由ネクタイをしたくないから。 (音楽業界に入るつもりはなかった) 学生時代マージャンとアルバイト漬け。優の数は1個だけだった。 家族家族は、5歳年下の妻。息子たち。 父親は設計事務所を経営。4歳年上の兄は公認会計士。 座右の銘、モットー愛、命、運、縁、恩の「あいうえお」を大切にしている。 「愛、命、縁、恩を大切にしていると、おのずと運は巡ってくる」という意味。 建築家の亡き父に教わった言葉だ。 趣味(社長就任時)休日はゴルフの予定がなければ、下の息子とスーパー銭湯に行く。 動画 |